峰守備忘目録《ミネモリビボウモクロク》

小説家・峰守ひろかずが、自著リストや短編小説を公開しているブログです。

◆短編小説◆金沢古妖具屋くらがり堂外伝 内灘にて

※以下は、「金沢古妖具屋くらがり堂 夏きにけらし」(2021年7月刊行)発売時に一部店舗で頒布された特典ペーパー用に書き下ろした短編であり、ポプラ文庫ピュアフル庫編集部の許可を得て掲載しています。なお、ブログでの公開に際し、一部を修正しています。

 


 小雨がぱらつくある水曜日の朝のこと。濡神時雨(ぬれがみしぐれ)がいつものように登校すると、生徒用昇降口の脇、庇の下の狭いスペースに、小柄な男子が一人、あからさまに困った顔で佇んでいた。

 葛城汀一(かつらぎていいち)である。見慣れた制服姿で、手には鮮やかな和風の日傘を提げていた。畳んでいるので柄はよく見えないけれど、どうやら結構な年代物で、そして間違いなく女物で、しかも間違いなく日傘である。

 なぜそんなものを持っているのだ。時雨が思わず眉をひそめると、それに気付いた汀一は顔を上げ、安堵と親しみの入り混じった声を発した。

「やっと来た……! 時雨、待ってたんだよ。あ、おはよう」

「おはよう。何かあったのか? と言うか、その傘は何なんだ。君のものなのか」

「違う違う。まあ、持ってきたのはおれなんだけど……。来る途中、バスの中でじろじろ見られた」

「だろうな」

 ドライに相槌を打った直後、時雨はふと長い前髪の下の目を細めた。汀一の提げている傘が、まるで生き物のように、ゆっくりと開閉を繰り返していることに気付いたのだ。しかもその開閉に合わせて、希薄な妖気が漂ってくる。

「動いている? しかもこの気配……。まさか、この傘、妖怪か」

「だよね、やっぱり」

 眉根を寄せた時雨の小声に汀一がぼそりと応じ、いっそう困った顔を傘へと向ける。どういうことだと時雨が聞くと、汀一は「昨日バイト終わって帰る時」と口を開いた。

「バス停に行く途中で、川の浅瀬にこれが転がってるのを橋の上から見たんだよ。綺麗な傘だな、誰かが落としたのかなって思っただけで、拾ったりもしなかったんだけど……。その後バスに乗って、降りようとしたら、『忘れものだよ』って言われてさ。何のことだと思って見てみたら、おれの座ってた席にこの傘があった」

「汀一に付いてきたということか?」

「そうらしいんだよね」

「自身に関心を示した相手に付いていくというのは、妖怪らしい行動だが。それで?」

「うん。とりあえず持って帰ったんだよ。悪い妖怪じゃなさそうだし、それに、もしかして時雨の親戚とかじゃないかなって」

「違う」

 汀一の問いかけを時雨の呆れた声がばっさり遮る。腕を組んだ時雨は溜息を落とし、登校してくる生徒たちに聞かれないように声をひそめて続けた。

「……僕は確かに唐傘の妖怪だが、同族の親族や知人はいないし、こんな傘は見たこともない。そもそもこの傘には意志があるのか?」

「おれに聞かれても……。で、どうしたらいいと思う?」

「僕の傘で妖気を吸ってしまえば、普通の日傘になるとは思うが」

「え。いや、それは可哀想じゃない? 別に悪いことしたわけでもないんだし」

 愛用の洋傘を軽く掲げた時雨に汀一がおずおず反論する。どうやら一晩の間に情が移ってしまったらしい。安心しろ、と時雨は肩をすくめて苦笑した。

「僕もそんなことはしたくない。しかし、どのみち、このままでは長く持たないぞ。妖気が薄れていっている。同じ傘としてはどうにかしてやりたいけれど、素性も目的もさっぱり分からないのでは手の打ちようがない」

「傘語で話せたりしないの?」

「そんな言語はない」

「ないんだ……」

「露骨に落胆されても困る。人を何だと思っているんだ。せめて、何を欲しているか分かれば……ん。待てよ」

「どうしたの?」

「この傘、川の浅瀬に転がっていたと言ったな? だったらもしかして――」

 時雨が何かを言いかけた時、始業を告げるチャイムが鳴った。二人は同時に顔を見合わせ、「話しの続きは後だ」「了解」とアイコンタクトで交信し、校内へと駆け込んだ。

 

 ***

 

 その日の放課後、汀一は「今日はバイトを休ませてください」と蔵借堂に連絡した上で、時雨ともども金沢駅へ向かい、北鉄浅野川線に乗った。

 浅野川線はその名の通り、浅野川に沿って走るローカル線で、市街と海とを片道ニ十分弱で結んでいる。汀一の普段の行動範囲は主に駅の南東側、金沢城を中心にした一帯なので、駅の北西側、つまり日本海側に行くことはほとんどないし、金沢で高校生をしていると電車に乗る機会もあまりない。

 なので今回の乗車は汀一にとっては新鮮な体験だった。しげしげと車窓を眺める汀一の隣で、時雨が軽く肩をすくめる。

「そんなに物珍しい光景でもあるまいに」

「珍しいんだよ。あんまり観光地っぽくないよね、このへん」

「実際、観光地ではないからな」

 そんな会話を交わしているうちに、列車は終点の内灘駅に着いた。

 そこから時雨の傘に二人で入ってしばらく歩くと、高架越しに内灘の海水浴場が見えてくる。オフシーズンの平日の日暮れ時、しかも天気は雨とあって、だだっ広い砂浜には人影は見当たらない。今まさに沈もうとしている夕日に照らされた日本海は絶景で、汀一は大きく目を見張った。

「すげえ……」

「ああ。圧巻だな。……それはそうと、感極まっているところ悪いが、早くしないか? 日が落ち切って暗くなる前に帰りたい」

「そうだね」

 隣の時雨に促され、汀一は波打ち際で屈み込み、手にしていた例の絵日傘をそっと海へ差し入れた。と、塩水を全身に浴びるなり、傘は嬉しそうにその身を勢いよく広げた。

 くっきりと描かれた紫陽花の柄が水の中に鮮やかに開き、打ち寄せる波がそれを覆い隠す。正体不明の絵日傘は、クラゲのように体を開閉させながら、まっすぐ沖へと漂っていった。

 二人の少年は静かにそれを見送り、やがて傘が完全に見えなくなった頃、時雨が「やはり」と口を開いた。

「海に帰りたがっていたんだな。おそらく、川から海まで流れようとしたものの」

「川が浅かったから引っかかっちゃってうまく流れに乗れなかった……。時雨の言う通りだったね。で、あの傘は結局何だったわけ?」

「名前は特に残っていないし、特に何をするわけでもない。海底で自然に閉じたり開いたりする絵日傘という、ただそれだけの妖怪だ。確か、南越のあたりの伝承だな」

「へー。……それだけ?」

「拍子抜けしているところ悪いが、それだけだ。妖怪の大多数はそんなものだ」

「ふーん……。そうそう、ありがとう時雨」

 しゃがみこんでいた汀一が立ち上がって嬉しそうに礼を言う。見上げられた時雨は面食らったように目を丸くした後、軽く首を傾げてみせた。

「別に君が礼を言うことではないだろう? むしろお礼を言うのはこちらの方だ」

「時雨が言うのも変じゃない? 相談したのはおれだよ」

「同族の妖怪に気を遣ってもらったわけだからな。というわけで、ありがとう汀一」

「いえいえ、どういたしまして」

 大仰に頭を下げる堅物な友人に、汀一は親しみの籠もった笑みを返し、体を軽くぶるっと震わせた。雨の降る夕刻の海辺はさすがに冷える。言わないことではない、と時雨がつぶやく。

「寒いんだろう。夜の海風は体を冷やす。そろそろ帰ろう」

「だね」

 傘を差しかけてくれる時雨に汀一がうなずく。もう一度だけ海を見やった後、二人は並んで静かな浜辺を歩き出した。「金沢駅でラーメンでも食べて帰らない?」と汀一が持ち掛けると、時雨は少し思案し、いいな、と抑えた声を発した。