峰守備忘目録《ミネモリビボウモクロク》

小説家・峰守ひろかずが、自著リストや短編小説を公開しているブログです。

◆短編小説◆お世話になっております。陰陽課です(補編) 新入職員、骨董市で物(もの)ノ気(け)を探せし事

※以下は、メディアワークス文庫WEBサイトでの公開用に書き下ろし、サイトでの公開が終了した短編です。メディアワークス文庫編集部の許可を得て掲載しています。「お世話になっております。陰陽課です」一巻の二話と三話の間のエピソードとなります。

 車の前に少(ちひ)さき油瓶(あぶらかめ)の、踊(をどり)つつ行ければ、大臣此れを見て、「糸(いと)恠(あやし)き事かな。此(これ)は何(いかなる)物にか有らむ。此は物の気などにこそ有(ある)め」と思(おもひ)給て御(おはし)けるに(中略)家の門は被閇(たてられ)たりけるに、此の油瓶、其の門の許(も)とに踊り至て、戸は閇(たて)たれば(中略)鎰(かぎ)の穴より入(いり)にけり。(中略)然れば、此(かか)る物の気は、様々の物の形と現じて有る也けり。

(『今昔物語集 巻二十七 鬼、油瓶の形と現じて人を殺す語』より)

 

 京都市役所いきいき生活安全課、通称「陰陽課」。京都の街に平安時代以来生き続けている妖怪達の生活を支え、時には妖怪が起こす問題を解決する秘密の部署である。公認陰陽師という役職を擁するところから「陰陽課」とも呼ばれるこの課の事務室に電話が掛かってきたのは、五月の末の金曜の夕方のことだった。

「どうも、お世話になっております。陰陽課の枕木(まくらぎ)ですが……」

 発信者の番号を見るなり電話を取ったのは課長の枕木だ。温和な顔の枕木は、相手の話をしばらく聞いた後「またですか?」と神妙な声を漏らした。難しい顔で相槌を打つ課長を見て、斜め向かいのデスクで仕事中だった火乃宮祈理は、何かあったのだろうかと首を傾げた。

長百五十センチ代半ばの痩せ型で、青みがかったフレームの眼鏡にオーソドックスなビジネススーツ。祈理はこの四月に入庁したばかりの新人で、外見通りの生真面目な性格の持ち主だった。入庁から二月、妖怪──この街では「異人」と呼ぶのが一般的である──や、陰陽術が跋扈する非現実的な日常には慣れつつあったが、まだまだ自分が未熟であることを祈理は強く自覚していた。

「課長。今のお電話は何だったんですか? 異人さんからですよね」

「ええ。少々厄介な案件が起きたようでして」

 受話器を置いた枕木が肩をすくめて苦笑する。と、その会話を聞きつけたのか、祈理の向かいの席から「うるせえなあ」とガラの悪い声が響いた。思わず祈理と枕木が顔を向けた先で、机に突っ伏して熟睡していた男がむくりと顔をあげた。

引き締まった体躯の長身の青年である。ストライプ柄のスーツにワインレッドのシャツに白のネクタイという公務員らしからぬ出で立ちで、ぴんぴんと撥ねた白銀の短髪や牙のように尖った犬歯は見るからにガラが悪く恐ろしげだ。

 いきいき生活安全課主任にして当代の京都市公認陰陽師、五行春明(ごぎょうはるあき)。祈理にとっては職場の先輩であり上司であり、同じ寮に住む隣人でもあるその青年は、がりがりと頭を掻いた後、枕木に眠たげな目を向けた。

「ゆっくり休んでもいられねえ。またですかとか何とか言ってたが、何の騒ぎだ」

「鞍馬の天狗の倉庫から、『物ノ気』が逃げたから捜してくれとのご依頼です」

 親子ほど歳の離れた部下からのタメ口を意に介そうともせず、枕木が落ち着いた口調で応じる。それを聞くなり春明は露骨に呆れ、顔をしかめた。

「物ノ気だあ? 一体何度目だよ。春先に捕まえたばっかりじゃねえか」

「同感ですが、逃げたものは仕方ありません。この時期であれば出てくる場所は絞り込めますし、その点は幸いでした。というわけで火乃宮さん」

「はい、何でしょうか」

「お聞きの通り、物ノ気という異人さんが逃げましたので、捕まえねばなりません。今週末の日曜に休日出勤をお願いしたいのですけれど、都合は大丈夫ですか?」

「もちろんです」

 眼鏡越しの視線を課長に向け、きっぱりと即答する祈理。と、その真面目な応対が気にくわなかったのか、机に片肘を突いた春明が呆れた声を発した。

「相変わらず面白みのねえ女だなあ。金曜の定時前でんなこと言われたら、休出かよーとか、このタイミングで言うなよーとか、そういうことを思うのが人情だろうが。それともあれか、何の予定もねえのか?」

「一応予定はありましたよ。お給料も出たところなので、寮で使う調度品や食器を見て回ろうと思っていましたが」

「じゃあ嫌がれよ。機械かお前は」

 うんざりした顔の春明が、祈理の長口上を遮って溜息を吐く。呆れたいのはこっちです、と祈理は内心でつぶやき、課長に向き直った。春明に言いたいことは色々あるが、どうせ適当に流されるだけだと祈理はそろそろ学習していた。

「それで課長、日曜は定時に事務所に来ればいいんですか?」

「時間はいつも通りで結構ですが、場所は違います」

「と言うと?」

 記録用のメモ帳を開きながら祈理が尋ねる。それに答えたのは枕木ではなく、向かいに座ったガラの悪い公認陰陽師だった。

「決まってるだろ。東寺だよ」

 

          ☆☆☆

 

「うわあ……」

そして迎えた日曜の朝。京都のランドマークの一つである五重の塔がそびえる東寺の境内のその片隅で、祈理はぽかんと感嘆していた。

 普段は広々とした空間なのであろう、二百メートル四方はある広大な境内を埋め尽くしているのは、大小さまざまな露店である。骨董品や古道具を扱う店が多いようだが、アクセサリーや小物を贖う店もあった。あみだくじのように入り組んだ通路を多くの客が行き交う様を一しきり眺めた後、祈理は傍らの春明に問いかけた。

「今日って何のお祭りなんですか?」

「アホか。祭じゃねえよ。第一日曜恒例のガラクタ市だ」

「手作り市とも言いますが、まあ要するに骨董品中心の露店市ですね」

 説明を補足したのは枕木である。いつものスーツ姿の祈理や春明とは違い、ワイシャツの上に京都市のロゴの入った作業着を羽織り、物ノ気回収用のクーラーボックスのような箱を肩から提げている。二人がさらっと述べた言葉に、祈理はまたも驚いた。

「ここではこんなのを毎月やってるんですか?」

「ええ。毎月二十一日の弘法市はもっとお店の数も種類も多いですよ」

「じゃあ、月に二回も……? すごいですね、さすがは京都──って、感動してちゃ駄目なんでしたっけ……」

大いに感激していた祈理の声の調子と肩とが、ふいにがくんと落ち込んだ。そういうことだ、と言いたげに、枕木と春明が無言でうなずく。ですよね。無言で同意しながら、祈理は金曜に聞かされた説明を思い返した。

 

「──物ノ気というのは、様々な道具に化ける異人さんでしてね」

 祈理に休日出勤の確認を取った後、枕木はそう切り出した。メモ帳を開いたままの祈理を前に、春明が枕木の後を受けて説明を続ける。

「器物や道具の気が凝(こご)って生まれた妖怪なんだよ。昔は鬼と同一視されてたが、実際は種類も性質も全く違う別物。犬猫以下の知能しかない虫みてえな頭の奴だから、説得とか対話は不可能だ。とっ捕まえて蔵に放り込むしかないわけで、実際何度もそうしてきたんだが」

「またも逃げ出してしまったようですね……」

 春明の嘆息を受けて枕木が補足する。年季を感じさせる苦笑を見ながら、祈理は聞いたばかりの話をメモ帳に書き付けていた。

「物ノ気、器物の気から生まれた動物的な異人、と。倉庫から逃亡したということですが、扉や鍵を壊すほど力が強いのですか?」

「力は大したことはありません。ただ、あらゆる器物に変身する上、大きさや重さを自由に変えるという、少々厄介な力をお持ちなのです。しかも、術などで誘い出すことも無理という」

「はあ。確かに厄介ですね」

「そうなのですよ。ちなみにこの物ノ気の記述が今昔物語集にあるのですが、ここでは、油瓶の姿で夜道で踊った後、鍵穴から人家に侵入、そのお宅の娘を殺めたと語られています。実際、若い女性を好んで襲うんですね」

「え。それが今、町中に……? 大変じゃないですか!」

 さらりと告げられた情報に、祈理は思わず立ち上がって声を荒げた。逃げるのが上手なだけの異人かと思っていたらとんでもなかった。陰陽課の職員として、、そして凶暴で危険な異人に襲われた経験がある身として、そんな事態は看過できない! だが慌て始めた祈理を前に、春明は枕木と顔を見合わせ、呆れてみせた。

「ほんとに何も知らねえんだな、ド新人。今の物ノ気には平安の御世ほどの凶暴性も力もねえよ。せいぜいこっそり女に噛みつくくらいだ」

「それでも充分危険ですよ! どうして日曜まで待つ必要があるんです? 東寺に集合ってのも意味が分からないんですが。すぐ探さないと!」

「簡単に言うな。闇雲に探して見つかると思うのか」

「そ、それは……。今どこにいるのか、どんなサイズのどんな物に化けてるのか、全然分からないんですよもんね……。おまけに誘い出す方法もない」

 メモしたばかりの情報を口に出しすと、祈理の胸中で不安感が一気に募った。陰陽課の人員は三人だけで、京都の街は広大であり、器物なんか何千個、何万個あるのか分からない。

「いっそ囮を使ったりしたら駄目なんですか? わたしで良ければやりますよ? 市民の被害を食い止めるためには」

「落ち着け、ド新人。で、とりあえず最後まで話を聞け」

「物ノ気は器物の──特に、器がたくさんある場所を好むんです。自身が隠れやすいからでしょうが、本能でそうした場所を察知して現れるという習性があるんです」

 春明の呆れた声を受け、枕木が流暢に説明する。それを聞いた春明は、そういうことだ、と言いたげに深くうなずくと、祈理に向き直って言葉を重ねた。

「直近で器や器物が集まる場所っつったら、一つしかねえからな。アレの習性からして、まず間違いなく紛れてるはずだ」

 

「なるほど……」

 一昨日聞かされた説明に、祈理はようやく納得した。

今の東寺の境内には、茶碗から湯呑から一輪挿しや灰皿まで、ほとんどあらゆる種類の、しかも値段もジャンルも種々雑多な器が、所狭しと並んでいるのだ。器の多い場所を好んで紛れる異人にしてみれば、ここは確かに最高だろう。しかし、逃げる側が最高ということは、裏を返せば、探す側がより大変になるということであって。

「で、ここでどう探すんですか」

「一軒一軒見て回れ。中にはガラのよろしくない店も混じってるかもだが、市役所の名札を出してやりゃ、冷やかしても怒られねえよ。名札は普段は隠しとけよ」

「い、一軒一軒……? それだけなんですか? 見分け方とかは……?」

「ありません。ただ、物ノ気は落ち着きがありませんから、じっくり見続けているとたまにピクッと動くことがあります。参考にしてください」

「踊る妖怪だからな、物ノ気は。つうことだから、まあ適当に頑張れ」

「三手に分かれて探すとしましょうか。確保できた時点で休出は終わりになりますので、頑張りましょう。そうそう火乃宮さん、もし物ノ気を見つけられたら、自分で取り押さえずに五行君にすぐ電話をしてください。危険ですからね」

「わ、分かりました……」

 正直、わたしに見つけられるとは全く全然思えないんですが。心の中で言い足しながら祈理がうなずくと、枕木は二人の部下を見回して言った。

「適宜休憩は取ってくださって構いませんが、アルコールは厳禁ですよ、五行君」

「分かってるよ。よし、とっとと終わらせちまおうぜ」

 では、と告げて枕木が立ち去り、続いて春明が逆方向へと歩き出す。正反対の方向の人込みに紛れていく二人を見比べた後、祈理はややあって強くうなずいた。

「……よし。やろう」

 自分で自分に言い聞かせるように声を出し、肩に掛けていたバッグのベルトをギュッと握る。正直、見つけられる自信はないが、危険な異人を放っておくわけにもいかない。自分は公務員であり、市役所の職員であり、陰陽課の一員なのである。というわけで意を決した祈理が歩き出した時、ぶっきらぼうな声が耳に届いた。

「おいド新人」

「ですので主任、その呼び方はそろそろ──って、主任?」

 いつもの癖で反論した後、祈理は目を丸くした。振り向いた先にいたのは、ついさっき人込みに消えたはずの春明だ。祈理は事情を問おうとしたのだが、それより早く春明は祈理との距離を詰め、手を取った。

「え? な、何です?」

「そう怖がるな。お前に渡すものがあるのを忘れててな。おっさんの前で渡すのは、その、ちょっとアレだったもんでな……」

 右手で祈理の手を掴んだまま言うと、春明はスーツのポケットに左手を伸ばし、十センチほどの紙片を取り出した。

紙片は五頭身の人間の形に切り抜かれており、歪んだ記号が墨で書きこまれている。それを祈理の手に握らせると、春明は無愛想に「魔除けの呪符だ」と告げた。

「物ノ気用の特化型だ。万一襲われた時でも、これを持ってりゃ弾き返せる。昨夜作った即席だが、一日くらいは持つはずだ。身に付けとけ」

「……魔除け? わざわざ作ってくださったんですか……?」

祈理の発する言葉の語尾が、奇妙な具合に裏返る。手元の呪符の効果を疑っているわけではない。春明がその手のスキルを有していることは、祈理はよく知っている。

だが、この人使いの荒くてガサツで適当で部下を部下とも思わない男が、わざわざそんなアイテムを作ってくれるとは……!

感謝するよりも先に驚きが来て、祈理は春明をまじまじと凝視した。と、その視線が不本意だったのか、春明は居心地が悪そうに視線を逸らし、両手をポケットに突っ込んだ。心なしか、色素の薄い白い肌が薄赤く染まっている。

「まあ、おっさんは手馴れてるけど、お前はド素人だからな。用心しすぎるくらいが丁度いいだろ。その──気を付けろよ」

「は……はい! あっ、それと、ありがとうございます……!」

 思い出したようにお礼を口にする祈理。だが春明は何も言葉を返さず、ふいっと背を向け、歩き去ってしまった。肩をいからせて歩いていく背中に、祈理はもう一度頭を下げると、お札を上着の内ポケットに入れた。

身に付けろって言っていたから、バッグよりここの方がいいだろう。そう考えながらポケットを上から叩くと、ふいに笑みが浮かんだ。少しテンションが上がっている自分に気付き、祈理は少し恥ずかしくなった。

 

          ☆☆☆

 

「お邪魔しました……」

 三十二軒目の露店を見終えた祈理の口から、大きな溜息が自然と漏れた。

 物ノ気捜索の開始から三時間が経過していた。東にあった太陽はいつの間にか真上に来ていたが、物ノ気は依然として見つかっておらず、祈理はかなり疲弊していた。

 器を扱う露店の前で屈み、商品の茶碗や皿をじっくり見つめる。やっていることはそれだけなのだが、中腰で屈み込んで静止するのは腰と脚に来るし、集中して商品を見つめるのは目が疲れる。似たような器がそこら中に並んでいる光景はデジャブを何度も誘発し、メモを付けていてもなお、どの店を覗いたのかがよく分からなくなってくる。挙句の果てには同じ模様の同じ茶碗が、幾つもの店にあったようにさえ思えてくる始末だ。そんなはずはないのに。

 もっとも、露店を見て回るのは、祈理にとってただ辛いだけでもなかった。骨董市と聞いていたから高級品ばかりかと祈理は思っていたのだが、手ごろな価格の商品も意外に多かった。寮の部屋に似合いそうな調度品や雑貨も色々見つけられたし、できれば買って帰りたいところだったが、休日出勤中なのでそうもいかない。

「……とりあえず、早く見つけないと」

 自分に言い聞かせるように声に出す。ついでにもう一度溜息を吐くと、祈理は次の露店を覗き込んだ。赤黒のシートの上に、大振りな茶碗や黒光りする茶釜などが値札を付けられて並んでいる。袋詰めの茶葉や抹茶の粉も売られており、「お茶お飲みいただけます」という手書きのポップが付いていた。お茶と茶道の専門店のようだ。

「すみません。少し拝見してよろしいですか?」

「はいはーい、どうぞどうぞ──って、何や。誰かと思たら祈理ちゃんやないか」

「え?」

 しゃがみこもうとしていた祈理の耳に、聞き覚えのある声が届く。フランクな口調に引かれた祈理が顔を上げると、折り畳み式の椅子に腰かけていた店主の青年がにっこりと笑みを浮かべていた。

 ほっそりとした長身に深緑の着物に灰色の羽織を重ね、長い金髪を左右に分けた、細面の美丈夫である。人懐っこい顔つきで微笑むその顔を前に、祈理は「あ」と間抜けな声を漏らし、目の前の男の名前を口にした。

「天全(てんぜん)さん?」

「いかにも。当代の宗旦(そうたん)狐、油小路(あぶらこうじ)天全でございます。陰陽課さんには、いつもえろうお世話になっております」

 かしこまって一礼した後、天全はすぐに普段の笑顔に戻る。

由緒正しい化け狐であり、市内の狐族の代表も務める天全は、祈理にとっては顔馴染みの異人の一人だった。常に親しげで余裕のある笑みを絶やさないこの狐を春明は心底嫌っていたが、祈理としてはそこまで苦手な相手ではなかった。あの乱暴な公認陰陽師よりは常識人だし、礼儀正しいし、慣れてしまえば嫌う要素があまりないのだ。

「こちらこそ、いつもお世話になっております。天全さん、こんなところで何をなさってるんですか?」

「僕の表の顔は茶道具その他を贖う古美術商やで? 骨董市で店出すのは当然やがな。それはそうと、えらいお疲れのご様子で」

「え。分かります?」

「そらなあ。挨拶するまで僕に気付いてくれへんかったし、脚もむくんでしもうとる。お茶淹れるさかい、少し休んでき。奥の椅子使ってええさかい」

「いえ。お心遣いはありがたいですが、勤務中なので市民の方からの私的な接待は受けかねます。申し訳ありません」

「固い子やなあ。事情は知らんけど、今日のお仕事は露店の巡回なんやろ? せやったら、ここで僕とお茶するもその一環やがな。それに、もう準備してしもたし」

 そう言って微笑む天全の手には、湯気を立てる小ぶりな湯呑が握られていた。もう片方の手にはお茶請けのお菓子が乗った小皿も。

いつの間に、と祈理は驚き、そしてすぐに納得した。相手は化け狐、しかも人を驚かせるのが好きな狐なのだから、これくらいは不思議ではない。ほらほら、と笑う天全を前に、祈理は手首の時計を見、考えた。

今日はまだ一度も休憩しておらず、自分が疲れているのは確かである。で、休憩を取る権利は労働者には保証されており、適宜取るようにと課長も言っていた。

「では、お言葉に甘えさせていただき、京都市役所職員服務規定に従い、十五分の休憩を取得させていただこうと思います。よろしいでしょうか?」

「よろしいですとも。さあどうぞ」

 

「──なるほどなあ。物の気探しか。そら疲れるわ」

説明を聞き終えた天全が、懐手の姿勢でしみじみとうなずく。祈理はそうなんですよと相槌を打ち、残ったお茶を飲み干した。

さすが茶人の名を持つ狐だけあって、天全が出してくれたお茶は深みがあって美味だった。お茶請けの小さな饅頭も上品な甘さが心地良く、疲れていた体が少し元気になったのが分かる。熱と甘みの余韻に浸る祈理の前で、天全は続けた。

「あれは道具屋の天敵でもあるよって、僕もお手伝いしたいけども、役立てる自信があらへんわ。むかーし、あれをおびき出す術の話を聞いたような気もするけれど、あったとしてもやり方なんて分からへんわな。ごめんな、祈理ちゃん」

「い、いえそんな、これは陰陽課の仕事ですから──」 

 だから自分達が頑張らないといけないんです。そう祈理は続けようとしたのだが、その時、ふいに天全の鼻がぴくりと震えた。次いで耳がぴくぴくと動いたかと思うと、天全はいきなり身を乗り出し、祈理の胸元に顔を近付けた。

「……え?」

 露骨に胸元の匂いを嗅がれ、祈理が困惑の声を漏らす。予想外の行動に固まる祈理の前で、天全は形のいい鼻をひくひく動かし、うなずいた。

「──ははあ。なるほど」

「な──何するんですかっ! ちょっと!」

 一瞬遅れて我に返った祈理が、椅子ごと後ずさりながら声を荒げる。今更のように胸元を押さえると、祈理は顔を赤くしながら眼鏡越しに天全をキッと睨みつけた。

「何考えてらっしゃるんですか?」

「何て、匂いを嗅ぐのは狐のコミュニケーションの基本やがな」

「わたしは狐じゃなくて人ですし、人間相手でいきなり胸に鼻を近づけるのはマナー違反だと思いますが。それと『なるほど』ってどういうことです?」

「何でもありまへん」

 いかにも何かありそうな顔でニヤニヤ微笑む天全である。隠し事をしているのは明らかだったが、それはこの狐の場合いつものことだし、簡単に話してくれる相手ではないことは祈理はよく知っており、休憩時間の十五分もそろそろ終わる。祈理は少し悩んだ後、説得を諦め、丁寧にお茶のお礼を告げて天全の店を出たのだった。

 

          ☆☆☆

 

 そうして天全の店を出て、五軒ほどの露店を覗いた後。

祈理はふと背後に視線を感じ、立ち止まって振り返った。

「あれ? 誰もいない……?」

 振り向いた姿勢のまま、祈理は小さく首を傾げた。振り向いた先にあったのは、細い通路の両脇に陶器を扱う露店が並び、その間を客が行き交うという見慣れた光景で、誰も祈理を見てはいない。もしかして物ノ気かとも思ったが、動いたり踊ったりする器も、残念ながら見当たらなかった。

気のせいか、と自分を納得させると、祈理は再び前を向いて歩き出した。次に並んでいたのは手作りアクセサリーとビーズ細工の店だったが、物ノ気は器に化けるそうだから、ここは飛ばしていいだろう。そう判断した祈理はアクセサリー屋の前を通り過ぎ、その隣の古道具屋を覗こうとして、再び足を止めた。

「……また?」

 ついさっき感じたばかりの、誰かに見られているようなあの気配。先ほどよりも強いそれを背中で感知し、再度振り返った祈理だったが、やはり誰も祈理に注意を向けている者はいない。アクセサリー屋の店主の女性は観光客に商品を見せているだけだし、その店先に並んでいるのも、シルバーの指輪やペンダント、ビーズ細工に目玉模様の絵付け茶碗などなど、今日だけで何十回も見たようなものばかりだ。

「やっぱりおかしいところはない……よね? 本格的に疲れてきたのかな……」

 再度首を傾げ、祈理は前に向き直る。そして歩き出そうとした直後、祈理はハッと違和感に気付き、立ち止まった。

 なぜ手作りアクセサリーとビーズ細工の露店の店先に絵付け茶碗が?

それに、思えば、あの茶碗は──目玉模様の描かれたあの絵付け茶碗は、朝から何度もあちこちの店先で見かけたものだ。ありふれた商品なんだと思って見過ごしていたが、全部、同じものだったとしたら……? だとすれば、あの茶碗はこちらの目に付かないように移動し、先回りしていたということになるわけで、それは──!

 と、そこまでを瞬時に考えた祈理が、ハッと振り返ったその時だった。店先の絵付け茶碗がひとりでにごろりと動き、通路に躍り出たかと思うと、その内側にギラリと無数の牙を生やしたのである。

「ひゃっ!」

 異様な光景を前に、祈理の口から悲鳴が漏れた。同時に、やっぱりだ、と心の中で声が響く。これが物ノ気だ!

アクセサリー店の店主と客、それに周囲の通行人がぎょっと言葉を失う中、絵付け茶碗に化けていた物ノ気はガチンと牙を鳴らし、弾かれたように跳ね上がった。一度大きくバウンドし、勢いを付けて祈理目がけて飛び掛かる。

「え? って、きゃあっ!」

 ほんの一瞬ぽかんとフリーズした後、祈理はとっさに身をかわした。まさかまっすぐ自分を狙ってくるとは思っていなかったのだ。怯える祈理、それに客や店主が遠巻きに眺める中、牙だらけの絵付け茶碗が通路の真ん中でリズミカルに体を揺らす。襲撃のタイミングを見計らっているのは一目で分かった。

どうやらこいつは思っていたより危険な相手だと祈理は理解した。今はなぜか自分を狙っているからまだいいけれど、市民を襲い始めると厄介だ。今のうちに取り押さえるしかない。かと言って、自分一人でどうにかできる自信はないわけで……。

焦りと不安に心が逸り、冷静さが失われていくのが分かる。落ち着きなさい、と自分を叱咤し、祈理はついでに自問した。こういう時はどうするんだっけ。

「いつもは──あ、そうだ! 主任に連絡を──」

 と、祈理がそう口走りながら携帯を取り出そうとした、その瞬間。

「下がってろド新人! 御(おん)、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)ッ!」

 聞き覚えのありすぎる横柄な声が、祈理の真後ろから響いた。

この声は、と思う間もなく、物ノ気の真上で雷光ののような光が弾ける。と、今まさに祈理に噛み付こうとしていた物ノ気は、「グギャッ」と奇妙な悲鳴を漏らし、元の目玉模様の絵付け茶碗に戻り──そして、そのまま動かなくなった。

「え? えーと、これは……」

 急展開に付いていけず、ぽかんと呆ける祈理。その後ろから人垣を押し退けてヌッと現れたのは、ストライプのスーツに赤いシャツ、銀髪で色白で目つきの悪い青年だ。言うまでもなく春明である。

「ったく、弱いくせに手間かけさせやがって」

肩をいからせた公認陰陽師は、絶句中の部下を一瞥もせず、転がった茶碗に歩み寄った。気絶した物ノ気を無造作に左手で拾い上げ、右手の人差し指で素早く五芒星を描いてコツンと叩くと、物ノ気はぴくりと一度だけ震えて静止した。

「これでよし──と。ん? おいこら、じろじろ見てんじゃねえぞお前ら。何でもねえよ、ちょっとした大道芸の練習だ! とっとと散れ、行かねえと蹴るぞ!」

 茶碗を掴んだ春明が、遠巻きに眺めていた観客を睨み付けて吠える。あからさまなガラの悪さにギャラリーは怯えて去っていき、祈理だけがその場に残る。春明はきょとんとしたままの部下に歩み寄ると、じろりと祈理の顔を見下ろした。

「おいド新人、終わったぞ。怪我はしてねえな」

「あ、は──は、はいっ! おかげさまで、いつもお世話に」

「何を口走ってるんだお前は。しゃんとしろ」

「す、すみません! ちょっと展開に追いつけなくて……。それと、また助けていただいてありがとうございました」

「仕事だ。礼を言われるこっちゃねえよ。それよりおっさんに連絡しろ」

 何度も頭を下げる祈理の言葉をぶっきらぼうな声が断ち切る。そう言った春明は何だか気まずげで、かつ居心地が悪そうだ。祈理はきょとんと首を捻ると、携帯を取り出して枕木に電話を掛けた。

 

          ☆☆☆

 

「はい、確かに。お疲れ様でした」

その少し後、境内の隅の茶店の前、屋外に設けられたテーブル席にて。ジャンパー姿の枕木は、手渡された物ノ気をクーラーボックスのような箱へと収めてロックを掛けた。ベテラン管理職の口から、やれやれと小さな溜息が漏れる。

「案外早く終わりましたね。火乃宮さん、ご苦労様でした」

「いえ、わたしは何もできませんでしたから……。全部主任のおかげです。ほんと、ありがとうございました」

「しつこいぞ。俺は俺の仕事をしたまでだ。礼を言われる筋合いはねえよ」

「ですけど、主任がいなかったら、わたしは──」

「そのへんにしとき、祈理ちゃん。無駄な感謝はもったいないで」

 食い下がる祈理だったが、そこに温和な声が割り込んだ。

陰陽課の一同が振り返った先に立っていたのは、金髪で和装の長身の青年だ。天全である。ふらりと現れた狐族の惣領は、枕木と「これはこれはどうもどうも」と会釈を交わすと、空いていた席に腰を下ろし、お馴染みの人懐っこい笑みを浮かべた。

「物ノ気、見つかったみたいですな。お疲れさんでございます」

「何しに来やがったこのエロ狐。てめえの店はどうしたんだ。潰れたか?」

「相変わらず口の悪いお役人やなあ。今日に限っては趣向も悪い」

 春明の憎まれ口に天全がにやりと切り返す。着物の袖から伸びる細い手が、テーブル上の物ノ気の入った箱をこつんと叩いた。

「さてお立ち合い。ご存じの通り、この物ノ気はんは、若い娘さんを好んで襲う習性があるわけや。そんでもって、こいつを誘い出す方法はない」

「それは知っていますが……」

「まあ、最後まで聞きいな。誘き出すのは無理でも、こいつに人を襲わせる術は、実は陰陽道に伝わっとるんや。特製の呪符をターゲットの寝床に仕込むなり、身に付けさせたりすると、物ノ気は引き寄せられてその人を襲う。ろくでもない邪法やけど、そこそこ腕の立つ陰陽師なら使える術のはずやで。そうやな、公認陰陽師はん?」

「え。そうなんですか主任?」

「……さあな」

「隠しても無駄やで。狐の鼻は呪術の類を嗅ぎ分けるし、一度嗅いだ気配は覚えてる。まあ、言うても、さっき祈理ちゃんと話すまでペロッと忘れてたんやけどな」

「さっき……? あっ! じゃあ、天全さんがわたしの匂いを嗅いだのって」

「正解。お茶しながら喋ってた拍子にふとその術のことを思い出して、さっきから香ってるこれはもしかして……? と思うたわけや。祈理ちゃん、この陰陽屋はんから何か受け取って、それを胸んところに入れてたやろ」

「え? ええ、確かに……」

 おずおずとうなずくと、祈理は胸ポケットから人型の紙片を取り出し、机に置いた。春明が物ノ気避けの呪符と言って渡してくれたものである、と説明し、不審な顔で春明を、続いて天全を見て問いかける。

「ということは……これが?」

「うん。物ノ気のターゲットを指定する呪符やね。つまりそこの公認陰陽師はんは、可愛い部下を囮にして網を張ってはったわけや。ドンピシャのタイミングで登場したみたいやけど、それができたのも、近くで張り込んでたからやろ? 祈理ちゃんが襲われるのを分かってないと、そんなことはできひん。さて申し開きはあるかいな」

「……そうなんですか、主任」

 再び二人に問いかけられ、春明が無言で顔を向ける。だが、ここまで黙って聞いていた枕木に「そうなのですか」と尋ねられると、春明はようやく渋々口を開いた。

「せっかく身内に若い娘がいるんだから、利用しない手はねえだろ。市民のためになら囮になっても構わないとか自分で言ってたわけだし。だろ?」

「え? まあ確かにそんなことは言いましたけど……ですけど、あれはあくまで仮定の話でしたよね? と言うか、やるならせめて教えてくださいよ」

「言うとお前の仕草が不自然になるからな。感づかれたら餌の意味がない」

 椅子の背もたれに体重を預け、腕を組んだ春明がきっぱりと言い放つ。開き直った態度に祈理は一瞬ぽかんと呆れかえり──呪符をもらった時に喜んだ自分が馬鹿みたいだ──ややあって、春明を睨んで声を発した。

「餌って……主任、それはあんまりです、あんまりですよ! 何も知らずうろうろしてたわたしが馬鹿みたいじゃないですか! 大体、何も教えずに囮にするなんて、部下の命を何だと思ってるんです? もし万一何かあったら──」

「それはない」

 春明が放った断言が、祈理の糾弾をふいに遮る。自信に満ちた口調に思わず黙ってしまった祈理を見返し、春明はテーブルに身を乗り出して言葉を重ねた。

「それは絶対にあり得ねえんだよ、ド新人。絶対に大事にならないって分かってたからこそ、俺はお前を囮にしたんだ。俺はな、お前と違って、この仕事はそれなりに長い。危ないかどうか、確実かどうかの判断くらいはできるんだ」

 祈理の眼鏡越しの両目をまっすぐ見据え、真っ正面から言い切る春明である。二十歳そこそこの若者に経験の長さを語られても……と祈理は反射的に思ったが、春明の言葉にはなぜか妙な説得力があり、何も言い返すことができなかった。

──自分はどうやら、目の前の不遜な陰陽師を何だかんだで信じているらしい。

そのことを改めて気づかされ、祈理の顔が赤くなる。もっとも、今感じている照れ臭さは顔を近付けられているせいでもあり、むしろそっちが主因のはずだ。とかなんとか心の端で分析しながら、祈理はぼそりと声を発した。

「もし間に合わなかったら、どうするつもりだったんです……?」

「考えてある。その呪府にはな、物ノ気に標的を示すだけじゃなく、弾く呪(まじな)いもちゃんと掛けてあったんだ。万一でも致命傷にはならねえよ。それに」

「それに……何です?」

「間に合っただろ?」

 開き直り気味の再度の断言が、祈理の目と鼻の先から響く。答になってないです、と祈理は思ったが、口から出たのは「確かに」という肯定だった。恥ずかしさの中に悔しさが少し混じった小声が漏れ、それを聞いた春明は勝利宣言のように鼻を鳴らす。そんな二人の部下の様子に、枕木は天全と顔を見合わせて苦笑し、仕切り直しのように口を開いた。

「ともあれ、今日の仕事は終了ですね。物ノ気は後日鞍馬の倉庫に届けることとして、ここで解散としましょう。お疲れ様でした」

「あっ、はい、お疲れ様でした! それで課長、ここで解散ということは、骨董市で買い物して帰ってもいいんでしょうか」

「それはもう。こ普段の日曜日と同じ扱いですからね。ああ、それと五行君。火乃宮さんの買い物に付き合って、荷物を持ってあげてください」

「……はあ? 何で俺が」

「はい?」

 春明と祈理の困惑の声が、ぴったり重なって響いた。二人に見据えられる中、枕木はゆっくり首を振り、スーツ姿の部下に向き直る。

「道具を色々買うとなると、女性一人では運ぶのが大変でしょう。その点、君は力もありますし、彼女と同じ寮に住んでいるわけですから、持って帰るのも楽だ」

「そういうことを聞いてるんじゃねえよ。何で俺がこいつのために──」

「火乃宮さんを囮にした罰だとでも思ってください。本人の同意を得ずに職員を囮に使うのは、管理職として看過することはできません。いいですね」

「ぬ。いや、だけどよ……」

「いいですね?」

 落ち着いた態度のまま、枕木が念押しのように繰り返す。と、食い下がっていた春明は、不服そうな顔のままではあったが、不承不承うなずいた。このガラの悪い公認陰陽師、相変わらず上司にだけは弱いようだ、と祈理は思い、少しおかしくなった。

「って、いいですよ、そんな! 主任に申し訳ないですし──」

「まあまあ。本人がウンと言うてるんやから使ったらええがな。丁度ええ罪滅ぼしや。それに、祈理ちゃんかて人手は欲しいやろ」

 慌てて断ろうとした祈理だったが、そこに天全がやんわり割り込む。その言葉に祈理は少し考え込み、今まさに苦虫を噛み潰していそうな顔の春明へ向き直った。

「手伝ってもらってよろしいんですか、主任……?」

「……好きにしろ、ド新人」

「ほら本人のオッケーが出た!」

 ぱん、と天全が手を打つ中、祈理は春明と顔を見合わせ、考えた。

春明はあからさまに不本意な表情だが、この人は本気で嫌ならきっぱりそう言う性格だし、だとしたら罪滅ぼしという見方も外れてはいないのかもしれない。それに、荷物を運んでもらえるのは──申し訳ないけれど──確かにかなりありがたい。

だとすれば、囮にされたことの清算として、手伝ってもらってもいいのではなかろうか? そう心の中でつぶやくと、祈理は春明を見上げ、おずおずと口を開いた。

「でしたら、持ち切れない分があったら、手を貸していただいてもいいでしょうか」

「いいっつってんだろうが。何度も言わせんな、ほれ行くぞ!」

「あ、はい! では課長、失礼します」

 春明に急かされながら、祈理はバッグを肩に掛けて歩きだす。

歩き回って疲れたり、茶碗に襲われたりと、散々な休日出勤ではあったけど、結果的には、そう悪くない日曜日になりそうではあった。

(完)